続けることにこだわって~音楽での被災地支援の一つの形

先日の研究会例会では、今回の被災地を、ライブでの募金や、現地での音楽療法活動で支援されているえみさんにお話しいただきました。

その後、研究会会報に載せるべく、感想や言い足りなかったことを~と書いていただき掲載したのですが、このような考えや思いで活動している人がいること、現地を体験した人ならではの、支援に関しての考えなど、もう少し多くの人に知っていただきたいという声も聴かれ、私もすごく思ったので、ここに載せさせていただくことにしました。

「音楽・音楽療法での被災地支援」という視点のみならず、「支援する」ということ、「活動を続ける」ということ、「音楽で人と関わる」ということ、「人とのつながり」ということ…など、色んな視点で読めるなあと思います。

前置きが長くなりました。読んでください。

 

「続けることにこだわって 

       ~音楽でつなげよう 届けよう音楽プロジェクト~」

                       お話しさせていただいて

 

研究会でこの活動についてお話できる機会をいただきまして、ありがとうございました。

当日お話ししましたが、先に沢山の文字にしてしまうよりも、話していくうちに思い出したことや、感じたこと、みなさんから聞いていただいたことなどを自分の言葉でお話ししようと考えて、その時間を迎えました。

いざ話し出してみると言葉に詰まってしまったり、感情の方が先に走って行って言えなくなってしまったり。

伝えることの難しさを改めて感じましたし、自分にとって平気でないことを沢山体験していることにも改めて気づきました。

 

 ライブを始めて、その準備の段階から含めると1年9か月ほどになりました。この年月は、そのまま、私自身が周りの多くの人に支えられたり、引っ張ってもらったりしてここにいるのだということを心から実感することにつながっています。

その前の年から「来年はライブをやろうね」がえみそら♪二人の合言葉のようになっていましたが、結果的にはこの震災が、私たちの背中を押すことになりました。

 “5年、10年後も続けられること”=“音楽すること、歌うこと”だと思ったものの、

えみそら♪二人ででもライブをやりたいとはなかなか言い出せませんでした。動き出したのはそらさんの「二人でもやろう」の一言でした。

 「二人で」と肩に力も入り、緊張した状態だったのが、その後すぐに奏(現:わおん)の二人が合流してくれることになり、同じ思いを持つ人がいることを心強く感じました。

そしてライブが始まると、さらに大きな輪の中にいると知ることになります。

会場の設営、お客様の対応、休憩時のお茶の準備などなど演奏以外のことを、毎回、こころん(音楽院卒業生と作る音楽グループ)のメンバーが整えてくれています。来てくださった方に気持ち良くいてもらうこと、そのためにもいい演奏をすることに私たちが集中できるようにと、こまごまとした心配りや作業を毎回てきぱきとこなしてくれているメンバーにはとても感謝です。

また、回を重ねるごとに、来てくださるお客様同士がお話をされていたり、ここがご縁で、公民館で開かれていた震災関連の展示会を地域の保育園の子どもたちが見に行ったり。

とても小規模のこじんまりしたライブではありますが、その分一人一人の顔が見えて、お客様と私たち、お客様同士のつながりというのも感じられるものになってきました。

 

当日も少しだけふれましたが、私自身95年の阪神大震災では灘区で被災しました。結婚して神戸に移り住んでちょうど1年が経ったところで、大学院を修了する年でした。自宅のハイツの部屋は全ての物が倒れてメチャメチャになり、外の階段が壊れました。

神戸で避難し、その後すぐに大阪の実家に身を寄せましたが、神戸での仕事のめどは立たず、4月に高槻市に越しました。

 突然の大きな音に冷や汗が出たり震えたりというのが治まるまで3年ほど、震災のことをちゃんと話せるようになるまで5年以上かかりました。復興しようと頑張っている神戸を出たことにもとても罪悪感がありました。

生活も精神的にも立て直せたと感じたのは3人目の子どもが1歳をすぎた頃。震災から11年経っていました。

東日本大震災の映像を見たときに、「10年」を意識したのは多分自分のこのような経験があったからかもしれません。

 

 避難していたとき、ラジオからはずっと安否情報と、移動する人のために気象情報、危険個所の情報、交通復旧情報が流れていました。食料や水などのことがあるので、行くあてがある者は早く避難所から出なければという雰囲気の中、その情報に皆が耳を傾けていましたが、2日目、ラジオから「上を向いて歩こう」が流れました。

その時、そこにいたみんながすーっとラジオに寄っていきました。恐らくみんな無意識のうちに。そして曲が終わるまでじーっと聞き入りました。誰もがほっとした表情でした。「こんな時に音楽をかけるなんて、非常識だ」という議論があったようですが、音楽を必要としている人が沢山いたと私は思います。

 

私が絵を描く人だったら、また力仕事のできる人だったら、ほかに何か技術を持っている人だったら、その仕事で今回の復興支援に関わったでしょう。でも、歌を歌う人で、音楽に関わる人で良かったと自分では思っています。

音楽をお金を集めるために使うこと、またはチャリティーそのものに対して、色々な意見があり批判されたこともあります。言われて気にしたこともありますが、岩手や宮城に行ってみて、そんなこと言ってる場合じゃないように感じました。応援してくれる人がいる間は、批判は気にしないようにしようかなと思います。

 ライブを始めて1年間、毎回言い続けた言葉は「早くこのライブから、チャリティーと言う言葉がとれますように。チャリティーじゃなくなっても、聞きにきてくださいね」でした。

でも、昨年11月についで6月に宮城に行ってから、これが言えなくなりました。どう考えても、チャリティーという言葉がなくせるのは、まだまだかなり先だと感じました。

写真でも見ていただきましたが、津波に襲われた場所はやっとがれきが除かれたところが多く、そこを人が住めるようにするには一体どれくらいかかるのか、予想もできない状態です。昨年11月、今年の6月、11月とその状態はあまり変わっていません。

がれきは行く場所がないため積み上げられたままになっているところが多く、どこも飽和状態です。

かといって、原発事故のことがありますから、ほかの自治体ががれきを引き受けることができないのも仕方がないように感じます。研究会で、何度かがれきを他にやることができないからそのままになっているとお伝えしましたが、それは、他の自治体が引き受けたらいいのに、と思っているわけではなく、本当に動かせないのではないだろうか、とも思うのです。それもお伝えしたかったことでした。動かせないならそのように、動かせるならどこに、と、政治にかかわってる人は何かいい方法をとれないんでしょうか。

 ぐだぐだしてる政治を見ていると、そんなことで足引っ張り合ってる場合じゃないやろ!とツッコんでしまいます。

 

 宮城でおじゃましている保育園では毎年畑を借りて園児たちが色々な野菜を作っていましたが、原発事故の影響でそれができなくなっていました。津波で流されていない場所、見た目に比較的被害が少なかった場所についてはあまり報道されることはありませんが、こんな風に、子どもたちの日常にもいろんな影響が出ていました。

そして、震災から1年経った今年3月以降、被災地以外から訪問する人は極端に減ったのだそうです。

震災直後は音楽その他で訪問しようとする人が多く、それを調整するのに一苦労だったそうですが、1年が経ち、忘れられたかのようになっているところが数多くあるようです。

 遠い地からの訪問というのは時間的にも金銭的にもやはり大変だと実感します。しかし、1度だけ、その時だけ、騒がれているときにだけ訪問するのは、なしだと思います。これは、私的にも、また、音楽療法士の立場からもそう思うのです。時間とともに忘れられる、生活は立て直っていないのに。それは焦りや失望感を生みます。自助努力には限界があります。同じように被災した人同士だからこそわかりあえる部分もありますが、その人たちには言えないこともあります。自分よりも怖い思いをしたかもしれない人に、「こわかった」「つらかった」とは言いにくいのです。仮設が出来、食べるものや着るものなどの生きていく最低限のものが一応確保できている今からが、私たちのような活動は本番かもしれません。

 1度目の訪問の後は、現地で音楽活動をする人を金銭面で支援する活動に切り替える方が、効率が良いのではないかと考えていました。2度目、6月に再度訪問して、訪問する人が極端に減ったことを聞き、「また来てね、きっと来てね」と言われて、回数は少なくても、効率的ではなくても、遠い関西から、「忘れてないよ」と訪問することもまた、一つの形なのではないかと思うようになりました。

 

 この活動を始めた時、中1、小2、4歳だった子どもたちはそれぞれ、中3、小4、6歳になりました。

 ほとんど毎回ライブを見に来てくれています。わおんさんの時は嬉しそうに楽しそうに参加していますが、母が歌うと「お母さん、まちがわへんかな」「急に音外さへんかな」と心配になるそうで、緊張した面持ちで見ています。

でも、そこで色々と骨を折ってくれている人たちを見、わざわざ電車に乗ってライブを見に来てくれている人たちを見、一緒に歌ったり話に耳を傾けてくれる大人たちの姿を見て、それぞれに何かを感じているようです。

 活動を始めて1年くらいの頃、中3の息子が「お母さんは何で人のためばかりに走り回ってるの?」と聞いたことがあります。その時私の口からでたのは、「外からは、人のためって見えてるかもしれんけど、そうだけじゃない気がする。自分のためでもあると思う」という答えでした。素直な疑問に対して出た素の答えは、自分の中にあった本音だと思います。

 震災直後、体験と重なって身動きがとれなかった2日間、その後の「えいっ!」と動けるきっかけとなった相方や周りのサポートがなかったら、もしかすると今でもショックや怖さで動けないままだったかもしれません。

 好きな歌を通して、色んな人と出会ってつながって、今は「歌わせてもらっている、聞いてもらっている」というのが正直な気持ちです。

 おそらく、細く長くといった表現がしっくりくるような活動になると思いますが、続けているうちに、そこに何かしらの形でかかわってくれた人からまた何かの広がりが生まれて、つながりができて、思いを寄せてくれる人が少しずつ増えるかもしれません。

 今回は思いがけず一度にたくさんの方にお話をするという形で、この活動を知ってもらうことができました。ちょっとした何かの機会に、これまたちょっと、「あ~、あんなことやってる人がいたなあ」、などと思い出してもらえるきっかけになれたらうれしいです。

 あ~、もしかすると、現地に行くには相当な覚悟が、と思われてしまったかもしれません。でも、機会を作れるなら、観光で行ってみてください。おいしいお酒、おいしい食べ物やきれいな山々。3度しか訪問していませんが、なぜか私たちには行きつけの、おいしーい居酒屋さんがあります。行かれる方には、こっそりお教えしますよ(^_^)

 

 次回のライブは2013年2月2日(土)の予定です。

 ただ今、京都寄りの場所で、会場を探しております(場所は未定です)

 

                      こころん

                      えみそら♪    えみ

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コメント: 4
  • #1

    ともさん (月曜日, 17 12月 2012 22:34)

    あら~ ここにも同じ文章があるとは知らず、第3回例会の通信メールの添付での文章を読んで、11/15の「日曜は例会ですよ」の所にコメントを載せました ハハハ・・・

  • #2

    きたさん (月曜日, 17 12月 2012 22:40)

    ともさん
    ちゃうんですちゃうんです~。
    これ、さっきアップしたんです。
    ともさんのコメント読んで、「せやせや、アップするんやった」って思い出した次第です~(^^)。
    そうそう、ともさんの「例会に行けなかったけど、想像で感想文」は、一部に大ウケでしたよ(笑)。

  • #3

    sex telefony (金曜日, 03 11月 2017 19:22)

    Dorosz

  • #4

    wróżka telefoniczna (金曜日, 17 11月 2017 22:47)

    roztrysły